パブリック・ディプロマシー日本外交に望むこと

34年間の外交官生活を振り返って

カルタゴの女摂政―チュニジアの政変について(2011.01.25作成)

記念すべき人生最初のブログ。丁度10年前のものです。

レバノン出身のカルロス・ゴーン元日産CEOとその二番目の妻の数々の蓄財疑惑と照らし合わせて読んで頂くとありがたいです。

 

ブログ

2009年2月から2010年8月までチュニジアを観察しておりました。離任後5か月で政権崩壊とは、感慨深いものがあります。個人的には多数の死傷者を出しながら、政府への抗議行動を進めたチュニジア国民に拍手を送りたいと思っています。チュニジアの国花ジャスミンにちなんで「ジャスミン革命」と呼ばれるようですが、facebookが大きな役割を果たした点を重視し、フェースブック革命とも呼ぶべきものです。(その後人口1000万人の中東の辺境にある小国での出来事が、大国エジプト、隣国リビアの変革を促し、世界の耳目を集める発端となりました。リビアは戦争に突入)変化は周辺部(main streamではなく marginalなところ、幕末の長州、薩摩、土佐?)から起こることが多い例の一つです。

留学生試験や大使館の現地補助員採用等には、高学歴で知的な若者も応募してくれました。今どきの中東の若者の本音を聞き出せる機会でもあり、面接は楽しみでしたが、その一方で抑圧政治下にあるチュニジア人には気の毒に思いました。新聞、ラジオで大統領一族を持ち上げる記事やコメントに毎日接していた外国人もうんざりしていたのではないでしょうか。町中にベン=アリ大統領の大きな写真があふれていました。チュニジアは昨年のノーベル平和賞受賞式(中国の民主化運動家が受賞)に参列者を送らなかった数少ない国の一つです。

大統領夫人一族の腐敗ぶりは、チュニジア人、外交団の間ではよく噂になっていました。ファーストレディの批判をすると血祭りになることを知っているので、穏健なチュニジア人は火の粉がかからないように気をつけていましたが、反政府派であることを外交団に公言している者もいました。進出した日系を含む外国企業の方も、業績を上げよという本社の要請がある中、大統領夫人一族とどのような「立ち位置」にあるべきか、苦慮されていたのではないかと推察します。

2009年10月に大統領選挙が行われ、ベンアリ大統領は5選を果たしましたが、その時期を狙って、「カルタゴの女摂政」(La Regente de Carthage)という大統領夫人とその取り巻きに関する暴露本もフランスで出版されました。この本はチュニジアでは入手できないので、たまたまパリに出張した館員に購入してもらい、一気に読みふけったものです。カルタゴは紀元前、ローマと戦った国ですが、今ではチュニス郊外にある町の名です。地中海沿いの高級住宅街で、 大統領官邸があるのでカルタゴの女摂政(ラ・レジェント)、すなわち大統領夫人ということです。

大統領夫人は、副大統領職を創設し、大統領が執務不能になった時は副大統領が代行するというラインで憲法改正をもくろんでいたと言われています。そんなことになったらこの国はもう終わりだと言っていたチュニジア人もいましたが、レイラ夫人とその一族に対する憎悪、怒りは穏健なチュニジア人の間でも相当なものでした。

レイラ夫人とその寵愛を受けた甥(政変後まもなく惨殺されたようです)は、ひとの持っているものがいいな、と思うと自分のものにしたがる衝動を抑えられないタイプのようで、甥はフランス人富豪の豪華ヨットを盗んだ罪で、フランスで裁判になっていました。レイラ夫人も、自分がアラファトの未亡人と一緒に創設した学校が生徒集めに苦労すると、成功している学校が自分の学校経営の邪魔をしていると感じたのか、その学校に閉鎖命令を出させることも厭わなかったと言われています。アラファト未亡人とはその後仲たがいし、未亡人は国外追放となりました。

男性諸氏には耳の痛いことかも知れませんが、任期中の私の疑問は、なぜベン=アリ大統領が夫人を抑えられないのかという点にありました。上述の「女摂政」の著者(フランス人ジャーナリスト)は、大統領は経済権益の面では、夫人にやりたい放題させているが、政治面では夫人の介入は許していないと書いていましたが、私が懇意にしていたチュニジア人ジャーナリストのひとりは、「夫人は政治的アニマルで、権勢欲はとどまるところを知らず、ふた回り近く年上の大統領は、体力、気力の衰えもあり、夫人を抑えられない」という見方をしていました。アラファト未亡人も議長よりうんと年下で、その贅沢ぶりが指摘されていました。サラリーマン家庭の夫婦なら、恐妻家と笑ってすますことも可能ですが、一国の指導者のように高い公職に就く者が自らの配偶者を抑えられず、施策に介入させる、公金に手をつけさせるということは、大変罪深いことです。為政者の配偶者は国民に対して(社長の配偶者なら社員や株主に対して)accountableではないのです。(この点につき、大統領亡命の1週間後の1月21日夜、私が愛読する英Financial Timesに短い文章を送付したら、時差のお陰で翌朝の朝刊に下記のように、トップで掲載してくれました。FT編集長も恐妻家なのかも知れません。)

政変後も首相職にあるガンヌーシ首相は、亡命した大統領の右腕であったので暫定政権にとどまっていることを非難する人もいるようですが、潔癖と言われており、腐敗の噂はありませんでした。有能なテクノクラートで、経済運営の手腕には定評がありました。大統領夫人とその取り巻きは、個別の利権に介入することにより私腹を肥やしていったとされていますが、ガンヌーシ首相は、資源もないチュニジアで、欧州に近いという地理的な有利さを生かすには、どの産業分野に限られた資金を傾斜配分するべきかといった点に心を砕いていたようです。政変後のチュニジアが、以前のように安定的に発展するには、経験のある政治家の元で挙国一致体制を確保することが大事だと思われます。イスラム過激派の扱いは難しい問題ですが、チュニジア国民も中長期的な目で国の将来を見、前大統領一派への怨念はわかりますが、国民和解が第一と考え苦しい移行期を乗り切れば、今回の政変はアラブ世界のモデルとなりうるのではないでしょうか。(その後、ガンヌーシ首相は高まる辞任要求を受け退陣、3月11日の大震災後、在チュニジア日本大使館での犠牲者への記帳には、自ら来て下さったそうです。)

なお、私の息子は帰国後もチュニジア人の友人とfacebookでやり取りをしていました。チュニジアYouTubeを取り締まっていましたが、 facebookが野放しなのは、治安維持の観点から大丈夫かな、と感じておりました(もちろん、私は規制派ではありませんが、チュニジアの為政者の側に立ってみればという意味です)。大統領夫人一族の誰かがfacebookのファンで、取り締まらないで、と陳情したのかもしれません。

禁じているYouTubeも、外国のプロバイダーにアクセスして視聴することも可能でした。飛行機ならチュニスからイタリアのシチリアの町パレルモには45分、スイス・ジュネーブには1時間15分、フランス・パリには2時間半で着きます。夏は欧州に出稼ぎに行っているチュニジア人が、ジェノバマルセイユからフェリーに車を乗せて24時間でチュニスに戻ってきます。GDPの6%を出稼ぎ労働の外貨送金に頼っており、自由で豊かな欧州を肌で知っているチュニジア人が増えこそすれ減ることがなかったことも、大統領にとっては命取りになったのかも知れません。

フランスからの独立後、教育に力を入れ(公立なら小学校から大学まで無料)、一夫多妻を禁じてきた近代化政策が功を奏するにつれ、言論、集会の自由のない強権体制とは両立しにくくなってきたのでしょう。大使館主催の小さな文化行事ですら、事前許可制でした。人が集まる→反政府運動につながる恐れがある→集会は自由にさせないという構図です。反政府デモがチュニスにまで及んでわずか数日後の大統領夫妻の国外逃亡劇でしたが、いずれそうなるかも知れないと事前に準備していたのでしょう、財産も国外逃避させていたそうです。

スイス政府は早速大統領一族名義の銀行口座を凍結しました。スイス銀行協会幹部は、国是の「銀行秘密」が怪しげな外国人のスイスにおける銀行口座開設につながっているというたび重なる批判に対しては、politically exposed(「政治的に微妙な」が適訳?)人物の口座は開かせない、know your own client(自身の顧客を良く知れ)を徹底していると胸を張っていました。(その後、ムバラク一族やカダフィ一族の資産凍結措置もとりました。)
いずれスイス政府とチュニジア新政権との返還交渉ということになるのでしょうが、スイスは、独裁者や犯罪者の隠し資産(我が国の場合は、闇金融収益)を返還請求国との間でシェアリング(山分け)という立場です。

(以上の見解は私見であり、所属する組織の立場を述べるものではありません。各「その後」以下は後日加筆した部分)

 

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英国フィナンシャルタイムズ紙に掲載された投稿文